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2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

祖母の戦争談

鳩 旧ブログ・旧HP記事の復刻
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小学生時代の宿題

今から40数年前、私が小学6年生の時、「戦争について身近な人に聞き、作文にする」という宿題が出されました。
当時のクラスメートは30人。全員が自筆で文章を書き、それを先生が印刷し、クラス文集としてまとめられました。

私が提出した作文のタイトルは、「祖母の戦争談」。
母方の祖母があらかたの文章を書いてくれ、ほとんどそのまま丸写しして提出した記憶があります。

「祖母の戦争談」は、旧ブログでも公開していましたが、改めて当ブログでも公開します。
祖母と私の文章が混在していて、読みづらい箇所もあるかと思いますが、ご容赦ください。

なお、誤字や句読点の位置はほぼそのままですが、読みやすさに配慮し、適当な箇所で改行を入れています。

この作文に登場する伯父2人も、いとこも、そして文章を書いてくれた祖母も、既に故人となりました。

「祖母の戦争談」

 戦争って人間にとっては、思い出すもいやなことです。太平洋戦争でいく百万か、いく千万か数にしても口には言えない程の、若い兵隊さんのギセイ。「天皇陛下バンザイ」と唱えつつ死んでいかれた兵隊さん。何と申すべき、言葉が出ない。

 B29が現れる。「空襲」シューシューとばくだんが所かまわず投下され、見渡す限り焼け野原。子供は学童疎開、家は空襲をさけるため取りこわし作業、女学生・中学生はみんな軍需工場へ勤労動員、又予科練に志願していく。大都会はみんな空襲で、つぎつぎ焼け野原。となり組で町内会の竹やり訓練、こんなことでどうなるのかとでも言ったら、特高警察にたいほされる。千人針で女の人、婦人会の人々 みんな頼んでする何の頼りにもならず、とうとうB29の強烈な白い閃光がはしり続いて巨大なキノコ状の雲がいっきに広がり、猛火が起こり人々は苦しみながら死んでいく。原ばくが広島や長崎に投下されやっと終戦となったが、炎の間に住む家も焼かれ食料も思うままには口にはいらぬ人々、焼かれなかった所はよかったと思っても思い返すも口には言えない気持ち。

 買い出しの帰りがおそくなり、堺の空襲で空が昼のように明るくしゅうしゅうと落ちるのを京阪電車の中でみて、「ああ、なんとかならぬものか」と思った。けれど、京都の深草(注釈1)には聯隊がいくつかあり師団司令部などあり、兵隊さんのはげしい動き、くつの音、馬のいななきなどが今だに耳の中に残っている。子供も二人(注釈2)、三高(注釈3)より、幹部候補生として臨時徴集で出ていき、兄は満州で応召になり二人の子供もお役にたつため、私たちは一心に神仏にお参りした。空襲警報には、幼い孫の手(注釈4)を引いて防空ごうに入るたび泣く子つれて入った。京都はさいわいに空襲にはあわなかった。けれどある日奈良線の大久保(注釈5)で敵機が火をふいて落ちるのを見て、みんな手をたたいて喜んだのを覚えている。親せきの年寄のおじさんの言われるには、「住む家を焼かれ、住む所もなく食料も思うままに口にはいらず、自分ながらよくも生き長らえたこと、神仏の加護かと心から感心している。今さら思いおこして戦争のことなど、口にしたくない」と言っている。

 20年8月15日に天皇陛下の終戦の宣言により終戦となったが、子供はソ連に三年も抑留され、最後の引きあげ船であったが衛生兵であったので、無事帰国しました。(おわり)


(注釈1)母方は当時、京都の深草近辺に居住していました。深草は現在も残る地名で、至近距離には伏見稲荷大社があります。
(注釈2)母は7人きょうだい。上3人が男性で、残りは女性です。戦地に行ったのは、2番目と3番目。
(注釈3)旧制第三高等学校の略。現在の京都大学の前身の一つ。
(注釈4)母の一番上の兄の子供、つまり私のいとこにあたる人です。
(注釈5)現在の近鉄京都線の大久保駅近辺だと思われます。

これからも考え続けたい。

文集は、今でも手元に残しているのですが、読み返して気付くのは、ほとんどのクラスメートが両親から話を聞いていること。
私たち世代は、終戦までに生まれて戦争を体験した親を持つ、ぎりぎり最後の世代だと思います。

ちなみに、私の父は昭和10年、母は昭和9年生まれ。
父は大阪、母は京都で、それぞれ終戦を迎えています。2人とも当時10才前後。
母から戦争体験を聞くことはほぼなかったのですが、父は、学校ではほとんど授業がなかったこと、空襲で爆撃を受けた駅を見に行ったこと、神風が吹くと本気で信じていたなど、生前話してました。

私が小中学生だった頃は、戦前生まれの教師がまだたくさんおられました。戦争を実際に体験しているため、彼らの反戦への思いは、今よりもかなり強かったと思います。
思いが強すぎたのか、やや偏った授業も、時にあったかな。

一例ですが、音楽の時間に、「平壌は心のふるさと」という北朝鮮の民謡を習いました。
当時はこの歌の背景を全く知らなかったのですが、大人になって知った時は、ちょっとビックリしましたし、どのような意図で私たちに教えたのかわからず、何とも複雑な思いを抱きました。

ちょっと話がそれましたが、若干偏りがありつつも、戦争について子供なりに考える機会を持てたこと、宿題や学校行事を通じて、戦前に既に大人だった人と、戦中に子供だった人の両者から、生の体験談を聞けたことは、幸運でした。

わからなくても、答えが出なくても、折に触れて戦争について考え続けることは大切なことだと、今私が思えるのは、小中学生時代の体験があったからです。

戦争体験者から、当時のお話を伺うことも、いずれできなくなります。
明治33年生まれの私のおばあちゃんの体験を通し、少しでも戦争について考えるきっかけを持ってもらえればうれしいです。

コメント

  1. ももいろペリカン より:

    おばあさまから戦争の話を聞けたのは本当に貴重なことですね
    私自身は昭和13年生まれの母からしか(去年、他界しました)聞けてませんが
    彼女は当時ほんの子供だったくせにその後の人生は
    ひーさんのおっしゃる戦前生まれの先生たちのように反戦の気持ちがハンパなく強く
    ひいては『日の丸』と『君が代』を異常に憎み、そのアレルギーは一生治りませんでした
    今の若い人からすれば愛国心の無い変な人に映るのでしょうね

  2. ひー ひー より:

    そうそう、ももいろペリカンさんのお母様だけじゃなく、かつては日の丸と君が代に嫌悪感を持っていた人が多かった印象です。私は学校で、「君が代」を習った記憶がありません。教科書の一番後ろに記載があるのに、なぜ歌わないんだろうと、子供心に不思議に思っていました。
    サッカーの試合前とかに「君が代」が流れ、選手たちが口ずさんでいるのを見ると、時代は変わったなって思います。

    お母様、お亡くなりになられたのですね。私の結婚時に喜んで下さったこと、懐かしく思い出します。遅くなりましたが、ご冥福をお祈りします。

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