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2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

最後の贈り物。

供花 雑記
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母は、7人きょうだいで、下から2番目。
母の妹に当たる叔母(以下、Kおばちゃんと記します)には、幼い頃からとてもお世話になった。

Kおばちゃんの家族は、かつて神戸に住んでいた。
我が家とは家族ぐるみの付き合いをしていて、私が幼かった頃は、Kおばちゃんの家に何度もお邪魔した。Kおばちゃん夫婦には2人の子供(以下、おにいちゃん、おねえちゃんと記します)がいて、よく遊んでもらったものだ。

幼い私にとって、おにいちゃんとおねえちゃんはとても身近な存在で、まるで実の兄姉のような感覚を持っていた。一人っ子だったので、余計にその思いが強かったのかもしれない。
彼らと会うのを心から楽しみにしていた記憶が、今も鮮明に残っている。

年月は流れ、おにいちゃんとおねえちゃんは独立し、神戸から遠く離れた場所で、それぞれ家庭を築いた。
その後、夫を亡くしたKおばちゃんは、ひとりぐらしを続けた。

我が家は、神戸の須磨在住だった伯母(母の姉・以下、Sおばちゃんと記します)夫婦とも、家族ぐるみで交流があった。
Sおばちゃん夫婦には子供がいなかったので、私が遊びに行くと、我が子のようにかわいがってもらった。

夫亡き後のSおばちゃんを、私の母があれこれ世話を焼き、母亡き後は、Kおばちゃんがそれを引き継いだ。

阪神・淡路大震災で被災したSおばちゃんの家に、定期的に通ってサポートしたのも、Sおばちゃんの最期を看取り、葬儀を仕切ったのも、空き家になった須磨の家の後始末、さらに、Sおばちゃん家の墓じまいまで済ませたのも、Kおばちゃんだった。

末っ子気質だからか、悪気はないのだけれど、空気を読まずに思ったことを包み隠さず、大きめの声で口にするので、Kおばちゃんを良く思わない親戚もいた。
私も対応に苦慮することはあったけれど、好奇心旺盛で、楽しい人だった。

ExcelやWordでの資料作り、年賀状の印刷と、パソコン操作はほぼ独学でマスターして、一通り使いこなしていたが、トラブル発生時には、なぜか私に電話をかけてくる。
Kおばちゃんが使うパソコンやプリンターの機種は知らないし、私が使ったことのないソフトの質問もされる。
試行錯誤しつつ、お相手をさせていただいたものだ。

畑仕事も好きで、小さな畑を借り、たくさんの野菜や果物を作っていた。
ひとりぐらしには多すぎる量のタマネギが届いた時は、途方に暮れたなあ。

さらに年月は流れ、高齢となったKおばちゃんは、おねえちゃん夫婦との同居を決め、神戸を離れた。

その後も、時折電話で話をした。パソコンがらみの質問が多かったけれど、世間話もあれこれした。
高齢で住み慣れた土地からの移住だから、暮らしの変化に戸惑いもあったようだ。「あっちが痛い、こっちがダルい」と、体の具合をぼやいたりもしていたけれど、元気に過ごしているようだった。
さらに、お中元やお歳暮まで贈ってくれるようになった。

ずっと独身でひとりぐらしを続けていた私のことを、とても心配してくれていたので、結婚報告の電話をした時は、とても喜んでくれた。

数年前、お歳暮のお礼を言おうと携帯に電話すると、つながらない。
同居しているおねえちゃんに電話をすると、Kおばちゃんは長期入院中で、携帯も解約したとのことだった。
お歳暮も、Kおばちゃんの依頼で、おねえちゃんが代理で送ってくれていたのだった。

おねえちゃんが送ってくれるKおばちゃんからのお歳暮は、それからも毎年欠かさず届き、お礼と共に、Kおばちゃんの近況を確認するために、おねえちゃんに電話をする年が続いた。

数週間前のこと。
おにいちゃんから、Kおばちゃんの訃報を知らせる電話がかかってきた。

Kおばちゃんが暮らしていたのは、私が住む大阪から遠く離れた場所。
葬儀には参列できないけれど、せめて花だけでも供えられたら。

おにいちゃんにそう申し出ると、きっぱりと断られた。

家族葬を営むこと。
Kおばちゃんが亡くなったことを、誰にも知らせるつもりはないこと。
私にも知らせないでおこうと思ったが、生前親しく交流していたことを聞いていたし、お世話にもなったので、特別に知らせたこと。

そう伝えられると、私はもう、何も言えなかった。

Kおばちゃんは、私の母の葬儀はもちろん、父の葬儀や四十九日法要、納骨時にも参列してくれた。
だから、いつか来るお別れの時は、葬儀への参列は無理でも、何らかの形で弔意を示したいと思っていた。

でも実際は、電話を通じてでしか、弔意を示すことが許されなかった。

私はKおばちゃんの家族じゃない。おにいちゃんとおねえちゃんは、Kおばちゃんを心静かに見送りたかったのだろう。
それに私は遠方住まいだし、余計な気を遣わせたくないという、おにいちゃんの配慮だと思う。

でも、「家族葬だから」という言葉、さらに、「当初は知らせるつもりはなかった」という言葉で、おにいちゃんとおねえちゃんから拒絶されたような感じもした。

おにいちゃんとおねえちゃんとの思い出は、私にとってかけがえのないものとして、今でも私の心に深く刻まれている、のに。

誰も何も悪くないのに、生じてしまった心のもやもや。
悲しいような、悔しいような、むなしいような、そんな思いを、私はどうやって払えばいいのだろう。
訃報を聞いた夜は、いろいろ考えて、なかなか寝付けなかった。

もやもやを抱えたまま過ごした数日後、ふとこう思った。

Kおばちゃんが亡くなった日は、私の母の月命日。
Kおばちゃんが亡くなった日の翌日は、私の母の誕生日。

私にとっては、Kおばちゃんの命日は、忘れようのない日。

Kおばちゃんは私に、記憶の贈り物を最後にくれたんだ。
ああ、これだ、これがいい。

Kおばちゃんとのたくさんの思い出や、寂しさを抱えていた幼い私と遊んでくれた、おにいちゃんとおねえちゃんとの思い出は、私だけのもの。
おにいちゃんとおねえちゃんは、また違う思い出を抱いていて、そこに私はきっといないから、供花も辞退されたんだ。

Kおばちゃんが私だけにくれた最後の贈り物は、得体の知れないもやもやを、きっと払ってくれる。

そう思えた。

ここ数十年、Kおばちゃんを通じてでしか、おにいちゃんとおねえちゃんとは交流がなかった。
たぶん今後は、彼らと交流を持つことはないだろうし、本当に「遠くの親戚」になるだろう。

でも、きっと、それでいいんだよね。

Kおばちゃんに会いに行こうと、ダンナが旅行の計画を立ててくれていたのだけれど、実現直前にコロナ禍となり、会えずじまい。
コロナさえなければ、行けてたのにな。会っておきたかったな。

これで、母のきょうだいたちは、みな亡くなったことになる。
母のきょうだいは、いざこざが多かったので、またあっちで言い争いしてるかな。

Kおばちゃんは、夫であるおじちゃんに会えたかな。

Kおばちゃん、今までありがとうね。
またいつか、会おうね。

コメント

  1. ももいろペリカン より:

    何度も読み返してしまいました。
    大切な人を亡くした時
    今まで見えなかったことが見えてきたりすることありますね。
    感慨深いです。

    • ひー ひー より:

      ありがとうございます。
      このおばちゃんにしても、両親にしても、亡くなってから感じることが多すぎて。
      まとめるのに苦戦しましたが、書けてよかったです。

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