「あの日」の風景~阪神・淡路大震災の日によせて~

四つ葉のクローバー 旧ブログ・旧HP記事の復刻
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今日1月17日は、今から28年前、阪神・淡路大震災が勃発した日。
母の一周忌の1週間後のことでした。

私は大阪在住なので、被災地のど真ん中にいたわけではありません。
それでも、あの狂ったような揺れ、地鳴りのような音は、忘れられません。

当時私が住んでいた家は、昭和40年代に建てられた戸建て住宅。耐震構造の配慮など、かけらもありませんでした。
もし神戸に建っていたら、私は今生きているかどうかわかりません。

天災は、本当に突然やってきます。容赦なく何もかも奪っていきます。
生き残った人は、悲しみを乗り越え、亡くなった命の上に、また新たな命を積み重ねていく。
遙か昔から繰り返されてきたことですが、本当に悲しい命の連鎖です。

神戸の震災を思う時は、自分が生きている意味について考えます。
あの日を忘れないことが、私にできることのひとつだと思っています。

今回は、私がかつて発行していたメールマガジン「ひーエッセイ」の中から、2003年(平成15年)2月4日に配信したものを、一部加筆修正し、転載します。
経験された方も、されていない方も、少しでも「あの日」に思いをはせて頂ければ幸いです。


★★ひーエッセイ★★ 2003/02/04(Tue)発行
第79巻 「『あの日』の風景」

私は「あの日」の1週間ほど前、母の一周忌法要を終わらせた。ほっとしたせいか、その翌日からひどい風邪を引いた。
仕事中に熱がぐんぐん上がり、体中の節々が痛み始めて歩くこともままならなくなった。仕事どころではなくなり、会社を早退してやっとの思いで病院へ行った。

インフルエンザではなかったけれど、その夜は39度以上の熱が出た。医者からも出勤を止められ、2日ほど欠勤した。
その週は結局、ほとんど仕事にならなかった。

週末はたまたま3連休だった。この連休のおかげで、体の調子もだいぶ元に戻った。心配した友達が、見舞いにも来てくれた。
連休最終日の夜は、「仕事がたまってるから、明日からはきばって仕事をしないといけないなー」などと思いながら、眠りについた。

翌朝である。
尋常ではない揺れを感じて、私は目が覚めた。

最初は夢かと思った。寝とぼけているのかとも思った。でも、確かに家がゆっさゆっさと揺れている。
まるで誰かが家をわしづかみにして、雑草などを引き抜くが如く揺らしているのかと思えるほどだった。

私は怖くなって布団の中に潜り込み、その揺れが去るのを待った。幸い何も落ちては来ないし倒れても来なかった。
そしてその揺れは、一旦止まった。ほっとした私は、また眠りについてしまった。

再度の揺れで、また目が覚めた。
1度目とは揺れている方向が違う。1度目が縦に揺れているとしたら、2度目は横揺れである。

家はみしみしと音をたてている。「ごーっ」という地鳴りが聞こえたような気がした。今度は本当に家がつぶれるかと思った。
でもまた私は起きあがることもせず、逃げようともせず、布団に潜り込んでしまった。

台所の方から、「ぴぴっ」という音が聞こえた。電気ポットの電源が切れたのだ。
停電である。

余震はあったけれど、その後はもう大きな揺れはやってこなかった。
7時頃にのそのそと布団を抜け出した私は、この地震に関する情報を得るためにトランジスタラジオを探し始めた。やっとの思いで見つけ出したとたん、停電が復旧した。

テレビをつけても、最初の頃は情報が錯綜していて、詳しいことは何もわからなかった。出勤のために家を出る時間になってやっと、電車が全く動いていないという情報が伝わってきた。
当時は運転免許も持っていなかったので、出勤は不可能だった。

この当時は、まだ携帯電話もインターネットも普及していなかった。
始業時間を見計らって、私は事務所や上司の自宅に電話をしてみた。
だが電話は全く通じず、受話器からは話中の「ぷー、ぷー」という音だけが響いていた。

9時頃になると、テレビからはこの世のこととは思えない、恐ろしい情景が流れ始めた。
死者・けが人の数も時間が経つごとにどんどん増えていった。

でも私の家の近所は、いつものように静かだった。
回覧板を持ってきた隣家のおばさんは、「今日は出勤せん方が、ええんとちゃう?」と、のんびり言っていた。

我が家の被害といえば、棚の上にあった置物が落ちてきたことと、家の建付が極端に悪くなったために、玄関の鍵がかけられなくなったことだけだった。
食器棚が倒れて、中に入っていた食器が全て割れたと嘆く大阪府内の親戚もいたのに、なぜか我が家では全くの無傷だった。

震災翌日、大阪府内の交通機関は復旧した。出勤した事務所で待っていたのは、ガラスが割れてしまった間仕切りだった。

あの当時の事務所在籍者は4人だったが、震災当日に出勤できたのは1人だけだった。
その人の話によると、机の引出は全て開き、積んであったカタログは散乱し、間仕切りにはめてあるガラスの破片が散乱していたとのことだった。

事務所の責任者の自宅は、兵庫県にあった。震災後1ヶ月以上ガスが止まり、カセットコンロ用のガスを必死になって買い集めていた。
私が接した、一番身近な被災者のうちの1人だった。

神戸方面の得意先は、壊滅状態だった。電話もしばらくの間は全く通じなかった。
でもその後「震災特需」が起こり、たくさんの注文が頂けたのは皮肉なことだったけれど。

被害が特に大きかった地区である須磨に住んでいた伯母に電話が通じたのは、震災2日目の夜のことだった。

「ああ、やっと通じた。おばちゃん、大丈夫?」
「あんた、何やな。全然連絡くれんと」
「へっ?」

当時東京に住んでいた親戚から、安否確認の電話がかかってきたのも、この日の夜だった。
ずっと疎遠になっていた伯父からも電話があった。地震がなければしゃべる機会もなかっただろう。この電話が、伯父との生前最後の会話となった。

私の周りには被災者はいたけれど、死者もけが人もいなかった。
表向きには何事もなく日々は過ぎていった。

兵庫県内に住んでいた友達に連れられて、高速道路が落ちている現場も見に行った。
目の前に広がる光景は、現実のこととは思えなかった。

震災から半年ほど経った頃、私は自動車教習所に通い始めた。
その教習所がそれまで高速教習のために使っていた高速道路は、まだ復旧していなかったため、通常とは違う高速道路を走るという経験もした。

当時は、電車で大阪府から兵庫県に入った途端に車窓の風景が一変した。
青いビニールシートがかぶせられた家がたくさんあった。全壊・半壊の家も目撃した。
あちこちに点在する、不自然で空虚な空き地も目の当たりにした。

我が家から電車で1時間もかからない場所で、あれだけの被害が出て、住む場所をなくした人がたくさんいる。

震災当時、築30年以上経過していた私の家は、地震以降ますますひどい状態になった。
ふすまや扉の開け閉めもできなくなり、外壁のあちこちにひび割れが走っている。屋根瓦もずれまくっていた。
それでも我が家は、壊れずに残ったのだ。

あまり知られてはいないけれど、死者が出ているのは神戸だけではない。大阪などでも若干おられるのだ。
この世のこととは思えなかった、あの激しい揺れ。「みしみし」という音。
それでも私は、生きているのだ。

自分が生きていることの不思議さを感じたのは、「あの時」が初めてだったような気がする。
人は生きるだけじゃなく、生かされている存在なのだと感じた。

一歩違えば、私も被災者の1人だったのかもしれないのだ。そしてもしかしたら、死んでいたかもしれないのだ。
たった1人で、がれきに埋もれて。

だけどこの偶然を「幸運」だと思うことは、私にはできない。

あれから8年(注:2003年当時)
「あの日」は、だんだん遠くなっていく。だけど、消滅してしまうものではない。

自分の生きていることの不思議さを感じた出来事に出会った日、それが人にとっての「あの日」なのかもしれない。

私はたまたま震災を通して感じたけれど、人はきっとそれぞれの人生の中で、それぞれの「あの日」にぶつかるのだろう。
そして、心の風景として刻みつけるのだろう。

私にも「あの日」の風景が、確かに刻まれている。

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