父と息子。

雑記
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先日、母方の従姉のご主人(義理の従兄)が亡くなりました。79才でした。

妻である私の従姉が20年ほど前に亡くなった後は、ずっと1人暮らしを続けていました。
しかし数年前に間質性肺炎を患い、入退院を繰り返すようになりました。少しずつ弱っていく従兄の面倒を見ていたのが、実家から少し離れた場所に暮らす彼の息子くんです。

1年半ほど前には、自宅で倒れていたところを、たまたま立ち寄った息子くんが発見、一命を取り留めたこともありました。

かつて、このいとこ一家と我が家は、親しく交流をしていました。電車で数駅ほどしか離れていない場所に住まいがあったので、従姉は何か理由を付けては、幼い息子くんを連れて我が家にやってきて、母とおしゃべりをしていました。
その間、私と息子くんは一緒に遊んだり、おしゃべりしたりしながら、大人の会話が終わるのを待っていたものです。

お互いに、おっさん・おばはんになりましたが、今でも息子くんは私のことを「お姉ちゃん」と呼び、ほとんど姉弟のような間柄です。

先月末、自宅で療養する父親の容態が急変して救急搬送された、「24時間もたないと思うので、親戚の人にお知らせ下さい」とERの医師に言われた、病室に入ってしまうと、コロナの関係で見舞えなくなるので、ERにいる間に会いに来てやって欲しいとの連絡が息子くんから入り、あれこれほったらかしのまま、病院にすっ飛んでいきました。

数十分で病院に到着、入院前検査の待ち時間中、息子くんは愚痴る愚痴る。

従兄はいわゆる内弁慶。何も言わなくてもしてもらえる、してもらって当たり前という、殿様気質で、私は従兄の家に行くことを「登城」と言っていたくらいです。

頑ななマイルールをお持ちで、マスクはしないし、「楽になったら、暖かくなったらする」と言って、リハビリも面倒がってしない。看護スタッフも困っていたそうです。
病状が悪化して、しんどかったのだとは思いますが、リハビリしないと、ますますしんどくなり、歩くのがおっくうになる。足腰が弱るし、筋肉も落ちる。悪循環です。

しかし、自分の意に沿わないことは、一切しない。聞く耳を持たない。

「楽になったらリハビリするって、試験勉強もせんと100点取りたいって言ってるようなもんや!」

辛いことは他人のせいにするし、感謝の言葉を口にしない。過去の父親からの態度や言葉で、いまだに許せないことがいくつもあるらしく、大喧嘩は数知れず。

「もういなくなってくれてもいい!」

従兄は意識があってお話もできましたが、以前よりも痩せ、本当に小さくなっていました。
人の最期を何度も看取ると、悲しい経験値が上がります。心の中で、もうこれでお目にかかるのは最後かな、お別れかなと思いました。

旅立ちは、その数日後の早朝でした。

24時間もたないと言われたけど乗り切り、あと1~2日だと言われたけど乗り切り、息を引き取る数時間前、看護師さんに介助してもらい、おしゃべりしながらトイレを済ませていたとのこと。
旅立つ寸前まで、意識があったということです。

担当医からは、おそらく苦しまずに静かに逝かれただろうという言葉があったそうで、息子くんは救いを感じた様子でした。

お通夜の席で、息子くんと会った時の第一声。

「いろいろあったけど、やっぱり死んだら悲しいな」

通夜と葬儀の喪主挨拶の中で、息子くんは、亡き妻に思いを寄せる父親のエピソードを聞かせてくれました。特に通夜での挨拶中、彼は涙を流し、最後は言葉になりませんでした。
棺には、あの世で間違いなく会えるようにと、両親の結婚式の写真を収めていました。

様々な葛藤を抱えつつ、息子くんはやれるだけのことをやり、父親の介護を全うした。
私も、彼の心に溜まった澱のような愚痴を、何度も聞いたものです。時に荒れた言葉を口にすることもありましたが、決して逃げなかった。

本当によく頑張ったと思う。偉かったと思う。
今度会ったら、心からのねぎらいの言葉を贈りたいです。

私の両親は、従兄のことをとても気に入ってましたので、骨上げまでご一緒してお見送りできて、私も安堵しました。
あちらではまた皆が集まって、賑やかにやっていることでしょう。

長い間、お疲れ様でした。奥さんとまた会えたら、今度はちゃんと言葉で愛情を伝えてあげてね。
またいつか、そちらでお目に掛かりましょう。

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