私の父は、巨人ファンでした。
私が幼い頃は、とにかく巨人は強かったし、スター選手も多かったから、とても華やかでした。
BSもCSもなかった頃、今で言う地上波で放送されるプロ野球中継は巨人戦のみ。ナイター中継がある時は、父がテレビを独占するので、我が家には複数台のテレビがありました。
毎週日曜日に放送されていた「ミユキ野球教室」も、父はよく見てました。
お義母さん(ダンナの母上)は、阪神タイガースの大ファン。
若い頃は、自作の応援グッズを携えて甲子園に通い、時には阪神戦を追いかけて、全国の球場を巡っていた頃もあるくらいの、ガチファン。
一昨年の優勝時は入院中だったけれど、今回はテレビの前で優勝の瞬間を見ることができたようで、大層お喜びです。
巨人ファンである父が、阪神の悪口をよく言っていたように、お義母さんも巨人が大嫌いで、巨人の文句や悪口をよく言います。
ダンナはそれほど野球に興味があるわけではなく、阪神ファンでもありませんが、巨人は嫌い。
私は、20代以降はプロ野球中継を見ていなかったので、プロ野球への興味はありません。
興味がないはずなのに、お義母さんやダンナが、冗談で巨人の悪口を言うたび、なぜか心がザワッとして、ほんのしばらく、話の輪から少し距離を置きます。
巨人の悪口を言われると、何だか父の悪口を言われているような思いになってしまう。
そして、悲しいような、悔しいような、腹立たしいような、苛立たしいような、ネガティブな気持ちが溢れ、心の中で「もうそれ以上言わないで」と叫んでしまうのです。
この、面倒くさくて複雑な気持ちの正体って何だろうと、常々思っていたのですが、最近何となく気付きました。
私、寂しいんだ、って。
ダンナも義両親も、私の親とは会ったことがありませんから、父が巨人ファンだったと、私がいくらお義母さんたちに話しても、所詮過去のこと。
そこから話は広がらないし、「こんなことがあった」「あんな人だったね」と、深く語り、理解し合うことはできません。
当たり前だけど、優先されるのは、今・現在です。
阪神を熱烈応援するお義母さん、それをまったり見守るお義父さんとダンナ。
彼らとの生活が、今の私には、一番大切でかけがえのないもの。
でも、時に、寂しい。心がザワッとする。
両親のことをよく知る親戚たちはほとんど亡くなり、思い出を共有したり、語り合ったりすることは、ほぼ不可能。
この事実は、両親が今この世にいないことよりも、寂しいことです。
父がナイター中継をぼーっと見ているので、いつまで経っても食卓から立ち上がらなかったこと。
そんな父にいらだち、ずっと文句を垂れ流すものの、母はなにげに巨人を応援していたこと。
私だけが知る、遠い昔のできごとになりました。
きっとこれからも、お義母さんたちが巨人の悪口を言うたび、心がザワッとするのでしょう。
でもそれは、私の中に父、そして母が生きている証拠だと思い、どうにか折り合いをつけつつ、ネガティブな思いと共に生きていきます。
無理に、ネガティブをポジティブに変える必要もないかなって。
だって、寂しいものは、寂しいんだもの。
今年は父の十七回忌に当たる年。
亡くなったのは1月なのに、そのことに気付いたのはつい最近。
もう法要はしていないけれど、親の回忌法要の年を、こんなにすっかりきれいに忘れてしまっていたのは初めてです。
すまぬ、父。
コメント