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2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

巨人と、阪神と、寂しさと。

供花 両親
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私の父は、巨人ファンでした。

私が幼い頃は、とにかく巨人は強かったし、スター選手も多かったから、とても華やかでした。
BSもCSもなかった頃、今で言う地上波で放送されるプロ野球中継は巨人戦のみ。ナイター中継がある時は、父がテレビを独占するので、我が家には複数台のテレビがありました。

毎週日曜日に放送されていた「ミユキ野球教室」も、父はよく見てました。

お義母さん(ダンナの母上)は、阪神タイガースの大ファン。
若い頃は、自作の応援グッズを携えて甲子園に通い、時には阪神戦を追いかけて、全国の球場を巡っていた頃もあるくらいの、ガチファン。

一昨年の優勝時は入院中だったけれど、今回はテレビの前で優勝の瞬間を見ることができたようで、大層お喜びです。

巨人ファンである父が、阪神の悪口をよく言っていたように、お義母さんも巨人が大嫌いで、巨人の文句や悪口をよく言います。
ダンナはそれほど野球に興味があるわけではなく、阪神ファンでもありませんが、巨人は嫌い。

私は、20代以降はプロ野球中継を見ていなかったので、プロ野球への興味はありません。
興味がないはずなのに、お義母さんやダンナが、冗談で巨人の悪口を言うたび、なぜか心がザワッとして、ほんのしばらく、話の輪から少し距離を置きます。

巨人の悪口を言われると、何だか父の悪口を言われているような思いになってしまう。
そして、悲しいような、悔しいような、腹立たしいような、苛立たしいような、ネガティブな気持ちが溢れ、心の中で「もうそれ以上言わないで」と叫んでしまうのです。

この、面倒くさくて複雑な気持ちの正体って何だろうと、常々思っていたのですが、最近何となく気付きました。
私、寂しいんだ、って。

ダンナも義両親も、私の親とは会ったことがありませんから、父が巨人ファンだったと、私がいくらお義母さんたちに話しても、所詮過去のこと。
そこから話は広がらないし、「こんなことがあった」「あんな人だったね」と、深く語り、理解し合うことはできません。

当たり前だけど、優先されるのは、今・現在です。
阪神を熱烈応援するお義母さん、それをまったり見守るお義父さんとダンナ。
彼らとの生活が、今の私には、一番大切でかけがえのないもの。

でも、時に、寂しい。心がザワッとする。

両親のことをよく知る親戚たちはほとんど亡くなり、思い出を共有したり、語り合ったりすることは、ほぼ不可能。
この事実は、両親が今この世にいないことよりも、寂しいことです。

父がナイター中継をぼーっと見ているので、いつまで経っても食卓から立ち上がらなかったこと。
そんな父にいらだち、ずっと文句を垂れ流すものの、母はなにげに巨人を応援していたこと。

私だけが知る、遠い昔のできごとになりました。

きっとこれからも、お義母さんたちが巨人の悪口を言うたび、心がザワッとするのでしょう。
でもそれは、私の中に父、そして母が生きている証拠だと思い、どうにか折り合いをつけつつ、ネガティブな思いと共に生きていきます。

無理に、ネガティブをポジティブに変える必要もないかなって。
だって、寂しいものは、寂しいんだもの。

今年は父の十七回忌に当たる年。
亡くなったのは1月なのに、そのことに気付いたのはつい最近。

もう法要はしていないけれど、親の回忌法要の年を、こんなにすっかりきれいに忘れてしまっていたのは初めてです。

すまぬ、父。

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